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田舎暮らしをはじめて、少なかった毎月の収入が更に少なくなってしまった。あまりお金には頓着しない女房が、ポツリと一言「お金が少ないのは気にならないけれど、まったく無いとやっぱり苦しいよね」と苦笑いしていた。これは本音だろう。
別に大金を得ようだとかいう大それた考えはないのですが、福沢さんも一葉さんも野口さんも僕を避けて通る、一寸寄ってくれると嬉しいのですが……、私の家の前に来ると何故か駆け足で素通りしてしまうのです。
そこで考えたのですが、人間にはアナが二つあり、この穴の大きさのバランスが大事だということではないでしょうか。僕などは入る穴は小さくて、出る穴が大きく出来ているようで、バランスがとれていません。人によっては入る穴は大きく、出る穴が小さい人もいますが、これもバランスがとれていないということになるのでしょうね。しかし、こういう人たちが勝ち組と呼ばれ、同じアンバランスでも私のような穴を持つ人が負け組みと呼ばれるのでしょうね。
最近ではみんな勝ち組になろうと、なりふり構わず入口の拡張工事を行うわけですが、これはバランスの問題で、入る穴を大きくすれば出る穴も自然大きくなってくることに気がつかない人が多いようです。そこでまず、二つの穴のバランスをとってから拡張工事を行わないと、穴が大きくなるので、借金も増え大変なことになってしまいます。
私も今まで随分と拡張工事に頑張ってみたのだけれど、一度身についたバランス感覚は容易に変えられないようで、半ば諦め気味でいます。
その証拠に、福沢さんが私の懐にちょっとでも滞在すると何となく落ち着かなくなってきて、まるで喉に小骨でも刺さったように、早々にお引取り願う手立てを考えてしまうという有様です。こんな訳ですから、私はとても勝ち組になれるはずがありません。「江戸っ子は宵越しの銭はもたぬ」なんていう負け惜しみ、何となく解る気がします。
さて、今日は丸は丸でもお金の話ではなくスッポンの話です。
丸鍋と云えば関西ではスッポン鍋のことで、文化文政時代に活躍した大坂の狂言作者濱松歌國(1776-1827)の著作、『摂陽奇観』巻の三、「三都自慢竸」の中に「江戸 紅葉の吸物、京都 にしんの昆布巻、大坂 番場の○汁」とあるように、大阪では昔からこのマルが使われていたようです。スッポンをどうして丸というのか色々調べてみましたが、『大言海』には「円亀の略、其甲、石亀の六角なるに対して、円ければ云ふ」とありました。
また一説としては、甲羅、爪、膀胱、胆?以外はすべて食べられることが特徴で、そのため「まる」ともよばれるとありました。解体することを「四つほどき」などとも言うそうです。
また丸鍋屋の看板にはじ○(地まる)と書かれたものが掛けられていたそうで、地物のスッポンを意味したそうです。
平亭銀鶏の『街の噂』巻の一に
千長: 「オイ姉さん、此じの字の下へ○をかいたのは、こりゃァ何だね。」
女房:「ハイハイ、それはまるでござります。」
万松:「まるは知って居るが、まさか四角とは見ねいが、其まるが分からぬのだ。」
千長:「へゝ知れやした、姉さん。団子のことだらふ。」
女房:「イエイエめっさうな。コリャお江戸でいふすっぽんのことでござりやす。」
万松:「又やりそくなった。なるほど、すっぽんのことを上方で丸といふことはきいてゐたが、画で○がかいてあるから分からない。そして、上にあるじの字は何の印だね。」
女房:「ハイハイ、アレハじ○といふことでござります。」
千長:「また分からないねい。じ○とはどういふ分けだね。」
女房:「ハイ、すっぽんは宇治から出ますのが上品でござりますから、宇治○とかきますのでござりますが、それを略して、只じ丸とばかりかきます。また家(うち)によりましては、今ひとつ略しまして、○と斗りもかきます処(ところ)もござります。オホヽヽ」
(・注『街能噂』 天保6年(1835)刊行された江戸と大坂の風俗を比較した書物で、著者は平亭銀鶏。平亭銀鶏は江戸の人物で、大坂に数年間滞在したときに見聞した風俗を、江戸との対比により記述している。全4巻のうち第4巻では、江戸と大坂の生活用具やさまざまな職業のありさまなどを挿し絵入りで描いており、両者の違いを視覚的に知るための基本資料として名高い。)
しかし、この「宇治丸」というのはすっぽんではなく、うなぎのことである、『四条流庖丁書』(長享)に「宇治丸と云ふは、うなぎの鮨なり」とあり、『大草家料理書』にも「宇治丸かばやきのこと、丸にあぶりて、後に切るなり」などとあり、平亭銀鶏が意味を取り違えたものと思われる。
最後に、「月とスッポン」も丸つながりということでご紹介しておきましょう。江戸時代後期の随筆『嬉遊笑覧』に、スッポンの甲羅が丸いことから異名を丸(まる)と言い、そして満月も丸いが二つの丸は大違い、まるで比較にならないので「月とスッポン」とは似て非なるものを云うとしています。
しかし、これにも異説があり、詳細は不明ですが、同時代に疑義も提示されています。朱塗の丸い盆「朱盆(しゅぼん)」が訛って「鼈(すっぽん)」に転訛したとの説で、幕末の役者評判記『鳴久者評判記』では、似て非なるもので比較にならないものとして「下駄に焼味噌」と並んで「朱ぼんに月」を取り上げています。さてどちらが本当なのでしょうか.
別に大金を得ようだとかいう大それた考えはないのですが、福沢さんも一葉さんも野口さんも僕を避けて通る、一寸寄ってくれると嬉しいのですが……、私の家の前に来ると何故か駆け足で素通りしてしまうのです。
そこで考えたのですが、人間にはアナが二つあり、この穴の大きさのバランスが大事だということではないでしょうか。僕などは入る穴は小さくて、出る穴が大きく出来ているようで、バランスがとれていません。人によっては入る穴は大きく、出る穴が小さい人もいますが、これもバランスがとれていないということになるのでしょうね。しかし、こういう人たちが勝ち組と呼ばれ、同じアンバランスでも私のような穴を持つ人が負け組みと呼ばれるのでしょうね。
最近ではみんな勝ち組になろうと、なりふり構わず入口の拡張工事を行うわけですが、これはバランスの問題で、入る穴を大きくすれば出る穴も自然大きくなってくることに気がつかない人が多いようです。そこでまず、二つの穴のバランスをとってから拡張工事を行わないと、穴が大きくなるので、借金も増え大変なことになってしまいます。
私も今まで随分と拡張工事に頑張ってみたのだけれど、一度身についたバランス感覚は容易に変えられないようで、半ば諦め気味でいます。
その証拠に、福沢さんが私の懐にちょっとでも滞在すると何となく落ち着かなくなってきて、まるで喉に小骨でも刺さったように、早々にお引取り願う手立てを考えてしまうという有様です。こんな訳ですから、私はとても勝ち組になれるはずがありません。「江戸っ子は宵越しの銭はもたぬ」なんていう負け惜しみ、何となく解る気がします。
さて、今日は丸は丸でもお金の話ではなくスッポンの話です。丸鍋と云えば関西ではスッポン鍋のことで、文化文政時代に活躍した大坂の狂言作者濱松歌國(1776-1827)の著作、『摂陽奇観』巻の三、「三都自慢竸」の中に「江戸 紅葉の吸物、京都 にしんの昆布巻、大坂 番場の○汁」とあるように、大阪では昔からこのマルが使われていたようです。スッポンをどうして丸というのか色々調べてみましたが、『大言海』には「円亀の略、其甲、石亀の六角なるに対して、円ければ云ふ」とありました。
また一説としては、甲羅、爪、膀胱、胆?以外はすべて食べられることが特徴で、そのため「まる」ともよばれるとありました。解体することを「四つほどき」などとも言うそうです。
また丸鍋屋の看板にはじ○(地まる)と書かれたものが掛けられていたそうで、地物のスッポンを意味したそうです。
平亭銀鶏の『街の噂』巻の一に
千長: 「オイ姉さん、此じの字の下へ○をかいたのは、こりゃァ何だね。」
女房:「ハイハイ、それはまるでござります。」
万松:「まるは知って居るが、まさか四角とは見ねいが、其まるが分からぬのだ。」
千長:「へゝ知れやした、姉さん。団子のことだらふ。」
女房:「イエイエめっさうな。コリャお江戸でいふすっぽんのことでござりやす。」
万松:「又やりそくなった。なるほど、すっぽんのことを上方で丸といふことはきいてゐたが、画で○がかいてあるから分からない。そして、上にあるじの字は何の印だね。」
女房:「ハイハイ、アレハじ○といふことでござります。」
千長:「また分からないねい。じ○とはどういふ分けだね。」
女房:「ハイ、すっぽんは宇治から出ますのが上品でござりますから、宇治○とかきますのでござりますが、それを略して、只じ丸とばかりかきます。また家(うち)によりましては、今ひとつ略しまして、○と斗りもかきます処(ところ)もござります。オホヽヽ」
(・注『街能噂』 天保6年(1835)刊行された江戸と大坂の風俗を比較した書物で、著者は平亭銀鶏。平亭銀鶏は江戸の人物で、大坂に数年間滞在したときに見聞した風俗を、江戸との対比により記述している。全4巻のうち第4巻では、江戸と大坂の生活用具やさまざまな職業のありさまなどを挿し絵入りで描いており、両者の違いを視覚的に知るための基本資料として名高い。)

しかし、この「宇治丸」というのはすっぽんではなく、うなぎのことである、『四条流庖丁書』(長享)に「宇治丸と云ふは、うなぎの鮨なり」とあり、『大草家料理書』にも「宇治丸かばやきのこと、丸にあぶりて、後に切るなり」などとあり、平亭銀鶏が意味を取り違えたものと思われる。
最後に、「月とスッポン」も丸つながりということでご紹介しておきましょう。江戸時代後期の随筆『嬉遊笑覧』に、スッポンの甲羅が丸いことから異名を丸(まる)と言い、そして満月も丸いが二つの丸は大違い、まるで比較にならないので「月とスッポン」とは似て非なるものを云うとしています。
しかし、これにも異説があり、詳細は不明ですが、同時代に疑義も提示されています。朱塗の丸い盆「朱盆(しゅぼん)」が訛って「鼈(すっぽん)」に転訛したとの説で、幕末の役者評判記『鳴久者評判記』では、似て非なるもので比較にならないものとして「下駄に焼味噌」と並んで「朱ぼんに月」を取り上げています。さてどちらが本当なのでしょうか.
人生、集大成の時期を向かえ「いったいぼくはどんな子供だったのだろう?」とよく考える。それを考えるとき、一様に複雑な思いに捕われてしまう。精一杯子供時代を満喫したことも、嫌な思い出もたくさん抱え込んでいるのだから、それはそれで仕方の無いことかもしれない。誰しもがいつの日か子供時代を振り返る時が来るわけだが、今まで生き、ここに存在し、相も変わらず日常に追われ、悩みや喜びを繰り返しているのだが、過ぎ去った日々は、記憶を辿る旅先のひとコマでしかないのだろうか………
1961年だったと記憶している。ひっくり返しても1961――そんなコマーシャルのはやった年だから間違いはない。その年は父と中村(萬屋)錦之助主演の宮本武蔵を封切館で観た。
内田吐夢監督、中村錦之助主演の宮本武蔵1部を観た。吉川英治の原作を内田吐夢が監督した5部作の第1弾というわけだが、僕はこの映画を観て何故か内田吐夢へ傾倒し、密かに映画監督への夢を描くようになった。父に話すと「普通、主役スターに憧れるものだ」と、父はそんな僕を笑っていましたが……。時代小説の好きだった父はよく僕を連れ、芝居や映画に行った。帰りにはきまって、赤提灯で晩い夕飯を食べながら父に感想を述べる。興奮し、一方的に話す僕の映画評を、父は焼酎をうまそうに飲みながら聞いてくれる。
その年の冬休み、僕は思わぬ体験をした。そろそろテレビが普及し始めたころだが、まだまだ映画人気は強く、邦画6社は順風満帆で中でも東映は一番の人気、日の出勢いだった。当時は年末になるとどういうわけか忠臣蔵が掛かっていた。この年も主役の大石内蔵助が片岡千恵蔵扮する忠臣蔵だった。
当時は映画会社が製作、配給、興行の流れを系統化し、自社作品を独占的に系列劇場にだけに配給するシステムで、東映館、松竹館……と六館あり、それに再映館まであった。しかし、人気映画のフィルム(封切り)は地方には一本しか回ってこず、これを2〜3軒の映画館がニュース映画などをはさみながらローテーションを組んで使っていた。(邦画6社とは東映、東宝、大映、松竹、日活、新東宝の6社)
正月ともなれば映画館は稼ぎ時、東映がはじめた2本立て興行、一日4回の放映が普通で、配給所は目の回る忙しさだった。
そこで配給所はアルバイトの募集をかけるわけだが、その募集に年齢を偽り兄とアルバイトをしたのだ。仕事は単純で、映画館で映写の終わったフィルムを次の映画館へ届ける、そこで、また上映の終わったフイルムを貰い、次へとまわす。黒塗りの大きな自転車にフイルムを積んで届けるのわけだが、映写が終わってないとそのフイルムが終わるまで映写室で小さな覗き窓から映画を鑑賞することができる。 当時フィルムはセルロイドと呼ばれる合成樹脂が主力だった。このセルロイド、極めて燃え易く耐久性が乏しいため、上映中にフィルムが切れたり燃えたりすることが多かった。こういうトラブルが起こるとローテーションが狂ってくるわけで、僕の映画鑑賞の時間が長くなるというわけだ。
そのうち、映写技師とも仲良くなり、切断されたフィルムを映写室で拾い集めることが許されるようになってくる。何度かの引越しで失くしてしまったが、小さなブリキ缶にいっぱいの、このコレクションを友人達に自慢していた。
にきびが出てきて異性を意識し始め、反抗期に入った僕は、父母との外出は避けるようになり、映画も洋画を主に観るようになると、父との映画についての会話もめっきり減ってきた。

もう随分前になるが、日田の町で立ち寄った喫茶店に「チャップリン」というメニューが掲げてあった。それもご丁寧にロバート・ダウニー・Jr主演「チャーリー」の大きなポスターの下に"当店特製「チャップリン」"と書かれ、添え書きには『よせる心を秘めて 舞台に散った道化の恋…名優の至芸』と書かれてあった。
このメニューは何だろうとマスターに訪ねてみると、つまりチャップリン→茶プリン=抹茶プリンという"おやじギャグ"だった。
マスターは私と同年か少し年上のように見えるが、よほどの映画通なのだろう。他にも映画にちなんだ"おやじギャグ"メニューは、いくつかあったようだが忘れてしまった。
さて、今日はチャップリンの話ではなくニュー・シネマ・パラダイスのお話です。
…「映画」が唯一の娯楽だった頃、真っ暗な部屋に人々は集い、 眩いばかりの「銀幕」に向って投げかける声援や罵声、笑い、そして涙。全てが輝いて見えたあの頃…
この映画は89年にカンヌ映画祭審査員特別大賞を受賞した作品ですが、しばらく映画を観るのをやめていた僕に再び映画のよさを教えてくれた作品でした。
監督・脚本はジュゼッペ・トルナトーレ、撮影はブラスコ・ジュラート、音楽はエンニオ・モリコーネ、出演はフィリップ・ノワレ、ジャック・ペラン他でした。
【あらすじ】
時代は現在、ローマ…。
深夜帰宅した映画監督のサルヴァトーレ・ディ・ヴィータ(ジャック・ペラン)は、母マリア(プペラ・マッジョ)からアルフレードが死んだという連絡があったことを知らされる。

アルフレードの名を聞くとサルヴァトーレの脳裏に、少年時代のジャンカルド村(シチリア)での思い出が甦る。戦後間もないシチリアの小さな村。この村の唯一の娯楽はパラダイス座という映画館。
サルヴァトーレ・ディ・ヴィータ……回想。
当時、母(アントネラ・アッティーリ)と妹の三人暮らしだったサルヴァトーレ(サルヴァトーレ・カシオ)はトトと呼ばれ、母親に頼まれた買物の金で映画を観るほどの映画好きだった。そんなトトを魅了していたのは映画館パラダイス座の映写室であり、また映写技師のアルフレード(フィリップ・ノワレ)だった。パラダイス座には司祭(レオポルド・トリエステ)の検閲があり、そのせいで村の人々はこれまで映画のキス・シーンを見たことがなかった。トトはいつも映写室に入り込む機会をうかがっていたのだが、頑固者のアルフレードは、映写室という聖域からトトを追い出そうとするが、やがてふたりの間に不思議な友情が芽生えていく
トトは映写室でカットされ、捨てられたフィルムを宝物にして集めるのだった。しかしある日、フィルムに火がつき、パラダイス座は瞬く間に燃え尽きてしまう。そしてトトの懸命の救出にもかかわらず、アルフレードは火傷が原因で失明してしまう。やがてパラダイス座は再建され、アルフレードに代わってトトが映写技師になった。
もう映画の検閲もなく、フィルムも不燃性になり、そして青年に成長したトト(マリオ・レオナルディ)は、恋をし、幸せなひと夏を過ごすが、失恋!
傷つきトトは兵役についた。そして、失恋したトトはアルフレードに勧められ故郷の町を離れ、やがて30年の月日が経つ。
時代は戻り…現在―――アルフレードの葬儀に出席するためにジャンカルド村に戻ってきたトトは、駐車場に姿を変えようとしている荒れ果てたパラダイス座で物思いに耽るのだった。
ローマへ戻り、つなぎ合わされた傷だらけの一本の映画に思わず身を乗り出すトト。モノクロのラブシーンの向こうに、走馬灯のように楽しかったあの日のことが懐かしく蘇ってくる。…それは検閲でカットされ、トトが宝物のように大事にしていたフィルムだった。それには、アルフレードとの想い出の全てが込められていました。


先日、東京の友人から無名塾公演のパンフレットがメールで送られてきた。ミゲル・セルバンテス原作のドンキホーテで、東京芸術劇場で1月6日〜20日まで上演されたらしい。能登を皮切りに全国56ヶ所を公演ツアーで回るそうで、九州に来たときには是非観たい芝居です。
さて、ドンキホーテといえば今では、あのディスカウントストアを思い浮かべる人が多いと思うのですが、17世紀初頭に書かれた長編小説の主人公なのです。ぼくの原点はここにあるように思う。人間の悲喜劇両面を融合し、妄想に似たロマンを求めて旅に出る。現代社会の価値観とは相反することのようですが、どこか笑うに笑えない道化を演じてくれる。僕が始めてこの本を読んだのは小学生の頃で、主人公にはどこか魅力を感じ惹かれたのは確かでした。
さて、このドン・キホーテは、果たして単なる道化の話なのだろうか。ドン・キホーテは恋と冒険に生きている。だから、道を行く羊の群れを巨人の大群と信じて突撃する。護送される囚人たちが恋のために捉えられたと聞けばその鎖を解き放ち、農民たちの税金の高さを嘆く声を聞くと、その原因を目の前の怪物(風車)のためだ突撃していく。確かにドン・キホーテは道化の物語として語り継がれているのだが、それは単に笑いだけで終わる道化話しとしてだけではないように思えます。
『ドン・キホーテ・デ・ラマンチャという”自称”騎士を名乗り、百姓サンチョと共に世直しの旅に出る。風車を巨人と言って戦いを挑み、その辺の娘を「ドゥルネーシア姫」と思いを寄せる姫にし、ひつじの大軍はは敵の兵士の群れと言って戦いを挑む・・・と破天荒な旅を続ける。
結局、ドン・キホーテは、バルセロナで「銀月の騎士」との決闘に敗れ、帰郷することで物語は結末を迎える。「銀月の騎士」の正体は、ドン・キホーテの知人の博士で、50歳を過ぎた主人公を心配した肉親や友人が博士に説得を頼んでのことだった。その後、ドン・キホーテは病に伏し、最後はアロンソ・キハーノとして息を引き取る。』
ドン・キホーテは恋と冒険のロマンの中に生きている。だから、道を行く羊の群れを巨人の大群と信じて突撃するし、護送される囚人たちが恋のために捕らわれたと聞けばその鎖を解き放ってやる。また、農民たちの税金の高さを嘆く声を聞くと、その原因を目の前で廻る怪物(風車)のためだと決めつけ突撃していく。
義のため我武者羅に突き進む馬鹿正直さ、素直さがに何か深く考えさせられ、行動とは何かということを考えさせたりもします。今一度忘れかけた「ドン・キホーテ」的な精神をもう一度呼び戻すためにも、この本を再読してみたいと思っています。
先日ある村づくりの会合に出席したとき、何かがかけているとふと感じたのですが、この出席者の中にはドン・キホーテがひとりもいないことに気がついたのです。。


狂気的なドン・キホーテの行動は実際には何も得るものは残さなかったかもしれないが、すべてが狂気として消え去ったのでしょうか。彼のような狂気や妄想がなければ人間の進歩や社会の進歩はあり得ない話だと思うし、小利口に現実や常識だけを見据え行動したのでは物事の進歩は難しいように思うのですがどうでしょうか。
「ドン・キホーテ」の世界がそのまま残るスペイン・ラマンチャ地方へは1970年代に旅をしました。赤い大地、白い風車が今も目に焼きついています
先日友人に古い蓄音機を戴いた。コロンビアのポータブル蓄音機だ。蓄音機の故障はほとんどがゼンマイの破損だが、これは長年の放置で、オイルが固まっただけで、これをきれいに洗い落とし、オイルを塗ってやれば動くようになった。外箱はかなり傷んでいたが、機械類はほぼ完璧でその日のうちにオーバーホール完了した。このポータブル蓄音機は手軽に持ち運びが出来、せまい日本の住環境では重宝がられたようで、随分普及したそうです。僕も小学校の頃はこれで体育の時間に遊戯の練習をしたのを憶えている。ただ難を言えば音質がいまいちで、歌口を変えても音はあまりよくならない。
そこで、このポータブル蓄音機をそのまま残すか部品だけを使用するか、散々迷ったあげく、この蓄音機を部品取りに使おうと決め再度分解を始めた。分解しながら気付いたことは、数箇所の補修箇所があった。それも正規の部品ではなく手作りの部品で補修している。実に巧妙な仕事で、ヤスリの歯の後が苦戦を物語っていた。戦後の物質難・食糧難の時代には補修部品の生産まで手が回らなかったのか、はたまた、正規の部品は高価で手が出せなかったのか私にはわからないが、彼ら職人の知恵と技術で見事蓄音機は蘇っていた。この蓄音機のおかげで、戦前の蓄音機を2台完璧に修理することが出来た。

そういえば、私の子供の頃には鋳掛屋(いかけや)さんがいて鍋や釜の修理をして歩いていた。大きな箱を担いで、「いかけや〜!いかけ、鍋釜の修繕」という呼び声で通りを歩いていた。お客があるとその家の前で道具箱を開き店開きをする。道具箱の蓋はそのまま腰掛にして座ると、箱は三段ほどにわけられて、最上段にはいくつもに仕切られた枠の中に、それぞれ修理用の細かな部材が分けられて入っている。部材といっても、アルミ・銅のリベットや半田、ブリキや銅の切れ端などであるが、きちんと整理された様はまるで高価な標本のように思えた。二段目には、大小様々な道具が入っている。どれもよく手入れがされ、黒光りしている。子供心にいかにも職人の使う道具のように思えた。一番下には小さな七輪、ブリキのバケツ、炭、団扇、半田ごてなどが入っていた。おじさんは手際よくそれらを自分の周りに並べ作業開始。修理にだされた鍋や釜を太陽にすかして穴の開いたところを一つ一つチェックしながら、石蝋でしるしをつける。その穴をハンドドリルを使い大きくする。不思議に思ってみていると、その穴にリベットを差込、金床の上に乗せ小さな先の丸いハンマーでなめるように丁寧にかしめ、太陽に透かしてみながら、また叩く。しばらくこんな作業を続けて出来上がり。おじさんから受け取った鍋をおじさんの真似をして、僕もお日様にかざしながら本当にこんなことで大丈夫なのかと、鍋を持って井戸端へ駆けて行き、水を張ってみると、やはり水は漏れない。これ以来、僕にとってこのリベットの部分は、抹茶茶碗の金継ぎのようにきれいな模様にみえるようなった。
今は音楽もDVDが主力で、レコード盤やカセットテープはすっかり影を潜めてしまった。僕はこのクリアーな音は嫌いではないのだが、機械的な音に聞こえて仕方がない、やはりノイズの入った蓄音機の音のほうが聞いていて落ち着く。人間もしかり、スマートに今風に生きる人より、負け組みといわれ時代に乗れず、自分の道をギシギシとノイズをあげながら不器用に生きている姿のほうが好感が持てる。これも僕独特の感性なのだろうか?

